月とシュークリーム

やっと涼しくなってきたのに、部屋のコバエがなかなかいなくならない。

水回りの対策はなるべくやっているはずなのに、なぜかいなくならない。

窓をずっと開けてるからか、植物を置いてるからか、原因は分からないけどもう諦めることにした。

壁をはう家グモを見て、コバエを食べてくれると思って外に出さずに家に置いてるのに全然食べる気配ないな、と怒りの矛先を向けてみる。

そもそも家グモは本当にコバエを食べてくれるのか。ハエを食べてくれるからクモは家に置いておくのよ、という教えは母からのものだった。この間久しぶりに実家に帰ると、玄関先に蜂の巣を作られていて、母が半袖の部屋着のままで殺虫剤を振り撒いていた。さすがに心配だったので、長袖は着てほしいとお願いすると、これは刺さない蜂だから大丈夫よ、と言った。私にとって蜂は蜂であり、刺す・刺さないで分けたことがなかったので、頑なに長袖を着るのをめんどくさがる母を不服な目で見ながらぶつぶつと小言を言った。刺す蜂か、刺さない蜂かは実際に刺されるまで分からないのではないのか?仮に刺さない蜂だとしても、巣を攻撃されて飛び回る蜂はとても怖かった。

お茶の時間に、去年から同じ場所に蜂の巣を作られ続けているという愚痴と、その流れで、ここ一年の間に違う場所ではあるものの2回も蜂に刺されたという話を母から聞いた。体が心配すぎるし、クモがハエを食べてくれる話も益々あやしくなってきた。

 

窓辺に置いてる蔦の植物が徒長していて気になったため、夜だったけどチョキチョキ切った。風が気持ちよかったので、少し散歩しようと思い外に出る。

夜の公園でシュークリームを食べてると、まるくて少しゴツゴツしていて、やわらかいところが月みたいだと思った。

月は有名な意訳から愛について絡められがちだけど、秋初めの涼しい夜に月を見ながら公園でふたりシュークリームを一緒に食べられたら、確かに愛だと思った。

次は体が少しポワっと浮くような白茶も持ってきて、ゆっくり座りたい。外でのごはんが美味しい季節は嬉しくってこれからたくさん外で食べたり寝たりしたいと思う。

 

いま読んでいる本に、秋の詩が載っていたので引用します。寂しくて落ち着く詩です。孫引き失礼。

 

秋の日(『リルケ詩集』高安国世訳)

主よ、時節がまいりました。夏はまことに偉大でした。

日時計のおもてにあなたの影を置いてください。

そうして平野にさわやかな風を立たせてください。

最後の果実らに、満ち満ちるようにお命じください。

彼らにもう二日だけ南国のような暖かな日をお恵みください。

果実らをすっかりみのらせ、重い葡萄の房に

最後の甘味を昇らせてください。

 

今家を持たぬ者は、もう家を建てることはないでしょう。

今ひとりでいる者は、長くそのままでいるでしょう、

夜ふけて眠らず、本を読み、長い手紙を書き、

そうして並木道を、あなたこなたと

不安げにさまようでしょう、木の葉が風に舞うときに。

(引用:池澤夏樹『詩のなぐさめ』岩波書店)